世界の宗教II ― その後の10年 ―

W.E.Mec

===== 序 =====

思えば月日の経つのは早いもので、宗教に関する論文を認めた時分が一昔も前になろうとしている。その間、至極隆盛を極めた宗教があり、儚くも消え去ったものもあった。また前の論文では全く触れる事のなかった俄に興った宗教もある。ここに宗教論者としてこの10年の間に得た知見を改めて論文として示すに良い機会であると考え、再び筆を手にすることとなった。

リスプ教

愛を重んずる人々から愛を語るにはリスプ教と言われた時代も過ぎ去り、ここしばらくは愛そのものが冬の時代を迎えたがために宗教活動自体も鎮静に向かっている。まったく滅びたわけではないが、他の宗教の聖職者が経典を書く堂を清めるときに、リスプ教の経が唱えられることはあるものの、副次的な教えとなったことは否めない。

プロローグ教

多くの宗教の教義が人生の全うするに至る道のりを経典として表すのに対し、プロローグ教においては、人生の目的をうたった詩片から構成されるのが特徴である。一時の熱も醒めた今となっては、多くの大悟する僧を輩出したことが世に対する寺院の最大の貢献であるとされているが、民衆に果してその悟りが活かされるかどうかはまだ未知数であろう。

フォース教

かつての信者が教えを請いに礼拝堂を訪れると、壁に猥雑な、あるいは金儲けなどの世俗に塗れた落書を見掛けるのみの寂寞たる様子に涙を禁じ得ないそうである。もっとも太陽の国においての一日の始まりの祈りはフォース教の教義によるものであることはあまり知られていないかもしれない。またフォース教の教義はポストスクリプト教として地下に潜り、書物を製版することを生業とする人々に支持されているのだ。

シープラスプラス教

シープラスプラス教はシー教の信者を取り込むために、シー教の教義との整合をとりつつも人間指向の考え方を導入することを目標にして作られた宗教である。したがって、経典は人間の魂と肉体について述べたものとなり、世界について漫然と記した経典を採る宗教とは趣が異なる。

教義の複雑さにおいて、そして教義とその解釈の統一が望まれる点でも、古典宗教と同じ道を歩みつつあるように思われる。幸にして、つい先程アイソの公会議において教義の統一が行われてきたようである。最近では、階級自体のさらなる階層化、人間の見かけの姿を真の姿に戻す魔法についての研究、経を唱える際に思いも寄らぬ事で神の怒りをかった際に、その怒りを正しく受け止める作法についての研究が神学会で進んでいるとのことである。

シープラスプラス教では、階級と職業を同一視する。また人間の魂と肉体の分離が不完全である。すなわち、大胆にも人間の性質たる要素である魂と肉体および職業といったものを全て階級に付随する性質であるとしたのである。更に古い宗教であるスモールトーク教に対しても、そもそも人間に階級など必要ないのではないかといった論争があり、今後もこの辺りの批判に対する回答としての新しい宗教が勃興する可能性は高い。

ビジュアルベーシック教

今や世界に冠たる皇帝ビルゲイツが持つ飛行の夢と共に永遠に生きるベーシック教への執念が結実した宗教である。しかしながら落ち着いた目でみると、たとえばベーシック教の経典には行に番号が振られていたのだが、ビジュアルベーシック教には見当たらないなど、元の教義のスタイルは痕跡を止めるに過ぎないことに気が付く。この宗教では経典を切り貼りすることにより新しい経典を作ることが容易であったことから、民衆の間に広く普及した。また、教会からのみではなく、民間からも経典が次々と寄せられることも普及を後押ししたようである。

最近では、プライバシーの尊重や信者が新たな職業を作る事を許すなど人間指向の考え方も見られる。実のところ、巷では人間とは何かをビジュアルベーシック教で悟ったと自負する人々も多いのである。しかし、何をもって人間とするかといった人間についての考察をよくする宗教者からはビジュアルベーシック教における人間に対する考え方に批判が強いのも事実である。

デルファイ教

前論文でのパスカル教の流れを組む教義である。パスカル教の第三の波を引き起こした、ボーランド教会独自の教義ではあるが根強い人気のある宗教である。やはり人間自身を究める宗派の影響を受けている。

パール教

シェルの教え、オークの教え、セドの教えなどの特殊な職業階層に広まった宗教を基にしたこの宗教は、その異文化への寛容さとその吸収の首尾一貫した節操の無さで知られる。その経典に現われる言葉の解釈が場所により様々に変化することも特徴である。最近では、粘土の人形を聖なる儀式に捧げて人間と見倣すことにより、人間を主体とする宗教の教義にすりよる姿勢さえ見せた。

エッフェル(アイフェル)教

人間を宗教の中心に供えた上に、神との契約の概念が発達しているのがエッフェル教の特徴である。祈りの始めと終わりにおける祭壇の状態に関していちいち神との契約を行うが為に、万が一祭壇に汚れが生じることがあらば、契約を破った罪により聖なる祈りは終りを告げることになるだろう。

ジャバ(ジャワ)教

ジャバ教は、優れた宣教師とその布教手段により瞬く間に世界に広まった、我々宗教研究者が勃興をまったく予期しえなかった新しい宗教である。教義自体の多くはシープラスプラス教に原型を見る事ができる。しかしシー教やシープラスプラス教が国家と密接に関係があったのに対し、ジャバ教では太陽の国が主導して作った宗教であるのにも関わらず、国からの干渉を無くす事が教義の一つであることが宗教上の特徴となっている。このため古いパスカル教と同じ様に国に依らぬ中間経典の法を律し、この経典を読み上げる神の仮身を定めたのである。

教会は宣教師を遣わせて世界中の神の仮身に経典を伝えるのであるが、邪悪なる宣教師が経典を捧げると神の仮身が怒りを表すのである。これにより正しい教えのみが流布されることになっている。

近年の教会においては、説教の際の話法として、いくつかの話の筋を同時に進めることが行われるようになった。しかし、経を読み賛美歌を唄う際に、一人の声が響くべきところを声が入り混じるがために正しい教えにならない混乱が生じ、シーやシープラスプラス教においてはこれを国から兵士を遣わして礼拝の進行を制させることで混乱を抑えて来た。しかしながら、ジャバ教においては経や賛美歌にその旨を記すことができるので国家からの介入が少なくて済むのである。

聞くところによると、リスプ教の経典を書く程の大司教がジャバ教の寺院にて教えの正確さを期すべく聖なる書を書き連ねているとの噂である。なお、この教義を原典のまま憲法とし国家を作ろうとする一派が現われるなど、リスプ教にて滅びた原理主義的教義の怨念が甦った感がある。

シープラスプラス教においては邪道とされた供物の還元については、リスプ教に近い立場をとる。信者が供物を捧げ続けても家に帰ればその供物が再び神から下されるのである。シープラスプラス教では、供物の回収が信者の仕事とされるがために、回収し忘れた供物が祭壇に山積したがために祭壇が圧潰したり、あるいは供物でないものを間違って回収したが為に殺し合いが起きたりすることが多々あるのだ。このために供物の争いごとを解決する、純にして聖なる水が高く売れたりしたのである。

巷の人々にわかりやすくかかれた経を、読み上げるその場で即座に原語に基づく経に翻訳していくことにより、再度経を読み上げる際の時間を大いに短縮するのも、この教義の普及に役立った法であろう。

シープラスプラス教において明確でなかった魂と肉体の分離についての教義も新たに生まれている。魂には宿るべき肉体のしるしを書き記すことにより、肉体そのものを魂から分離するのである。これにより魂の世界であるところの理想郷を描きだすことができるのが信者には応えがたいところであろう。実際、人間指向の宗教者の間では、肉体について語るのも汚らわしいと考える向きもあるからである。

最近、一部の冒険者たちが属する教会において太陽の国が邪教として認めない教義が広まった。ここに初の宗教の教義に関して国と教会との戦争の兆しが見られるのである。

===== 結 =====

次に筆をとるのは、また10年の後になるであろうが、果してその頃の宗教界は如何ばかりであろうか。何が宗教の教義が意を注ぐべき対象となるのか、もはや私の想像力も弊えた様である。

― 1998.3.18

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